世界の果てのアリ


「アリはすごいのよ・・・」 ぽつりと彼女は言う。
「たとえば、何を間違ったか私の体を上へ上へと登ってきたアリが私の指先まで到達するの。 その存在に気がついた私が指先のアリをふっと吹き飛ばした時、彼は地面にひらりと着地してから再び何事も無かったかのようにあくせく歩き始めるのよ。 どうして、自分の体の何百倍もの距離を一瞬で吹っ飛ばされているのに、次の瞬間からもう何事も無かったように歩きだせるのかしら。 その落ちた先がどこの世界かも皆目わからないのに」
さらに彼女は言う、
「孤独よねえ・・・さびしいわよねえ・・・泣いちゃうわよねえ・・・」
僕は、いつものように、ふんふん、はいはい、すごいねえとあいづちを打つ。 どうしてそこまでアリに思い入れがあるのか?
「ほんとにそう思ってるの?」 彼女はアルコールで少し焦点の外れた瞳で僕を睨む。
「あなたはもっと一瞬にして吹き飛ばされた蟻の気持ちをよく考えるべきではないかしら」
ますますもって彼女が何を言いたいのかよくわからない。

「はいはい、そろそろおひらきだ」 残念ながら僕は明日も朝が早い。
僕はまだ飲み足りなさそうな彼女を追い立てるようにして店を出て、駅から高台にある彼女のアパートまで送り届ける。
いつ来ても彼女のアパートまでのこの坂道はきつい。
「高台だから部屋の窓を開けると世界の果て見える時があるのよ」 と彼女はある時言った。
「世界の果てはどうなっているんだい?」
「世界の果ては世界の果てよ」
「だからどうしてその見えてるところが世界の果てだってわかるんだい?」
「薄青くぼんやり輝いているのよ。そして聞いた事が無いような言葉がざわざわしているの」
「それが聞こえるのかい?」
「聞こえるときもあるのよ」
「はあ、さようですか…」
僕は彼女を世界の果てが見える部屋に押し込んでおやすみとさよならを言う。

世界の果てで交わされる言葉とは・・・と思った瞬間に、ザワっという音と共に体が急に軽くなった。 まるで天から誰かが僕を吹き飛ばそうと吹上げたような突風に巻き上げられ、僕の体は一瞬にして宙に舞い上がる。 遠ざかる景色に彼女の部屋の窓の明かりと僕に手を振る彼女の姿が見えた。

吹き飛ばされ到着した先は見知らぬ世界。 さっきまで高台から見えた街の灯はどこにも見えない。 周囲に見えるのは、いたるところで地面から突き出した青く透き通った多角柱の結晶。 この人気の無い凍ったような世界で、聞いた事が無いような言葉がどこからともなくざわめいている。

そして僕は少し気が動転しているようだ。 ここが例の世界の果て? そう思った瞬間に不覚にもなんとも言えぬ感情がこみ上げてきた。
孤独です・・・さびしいです・・・泣いちゃいそうです・・・
とその時、耳の奥で彼女の声が聞こえた。
「どう?アリの気持ちは?」
僕はしぶしぶ答える。
「・・・うん、何となくわかったよ」
にんまりとした君の顔が見えるようだ。