Wing


「いつか君が欲しがっていた、永遠の翼をあげるよ!」


いきなり乙女のアパートにのりこんできたTさんにまじめな顔でそう言われた時、私のハートはときめいた… いやいや、そんなはずはない。 間違ってもない。 <<ああっ、ついにこのヒトは頭がいかれちまったか>>、と正直思った。
Tさんはサークルの先輩で、大学院生。薄暗い理学部の地下の実験室で何やら怪しげな実験を繰り返していると噂されていて、最近ではマッドTと囁かれている。
はじめてそのサークルで知り合った時のTさんは少し風変わりであるが普通の文芸おたくだった。何かの宴会の席で、そのTさんと飛ぶという話題に関して大いに盛り上がったことからそれなりに仲良くなっていた。
リチャード・バックの『かもめのジョナサン』はもっと見直されていい飛行小説だとか、サン・テグジュペリの『夜間飛行』を読むたびに空と大地に対する人間の小ささを痛感するとか、若さ全開のだべりだったと思う。
もう数年前になるその宴会の席で私は一言つぶやいた。
『わたしにも翼があればなあ』
この若気の至りの赤面な一言をTさんは忘れていなかったのだ。


人間にも翼はあった、というのはTさんの理論で、確かにそういう話を本で読んだ事もある。
背中の肩甲骨あたりの突起がそのなごりだと言われる。
Tさんが力説する。
「つまりはヒトは今でも翼を作る素材は隠し持っているんだ。 ただその素材が翼へと変化する為の反応が体内でできなくなった。 すなわち、翼生成酵素の遺伝子がいつの間にか欠損してしまったわけなんだな。 そこで僕は様々な鳥の翼に関わる酵素を生成させる遺伝子をつかさどる塩基の配列を決定したのさ。その塩基配列にしたがいcDNAを作製し、大腸菌の核外遺伝子であるプラスミドに組み込んで、ようやく大腸菌に大量の翼生成酵素を生産させることに成功したんだ」
もろ文系である私にはTさんが言っている事はもはや理解を超えている。 ちょっと目が恐いよ、Tさん。
Tさんはさらに熱っぽく私に言った。
「そしてできあがった翼生成酵素をカプセルにおさめたのがこれ」
Tさんが私にそれらしき1つのカプセルを差し出した。
「これを私に飲めと?」 ようやく私はここで口を開いた。
私の目を見てこっくりとうなずくTさん。
間髪入れずに私は言った。
「イヤです。 そんな大腸菌にまみれた、わけのわからないカプセル」
「いや、ちゃんゲルろ過かけてきれいに精製してるから大丈夫。 100%混じりっけなしのタンパクだから」
「いやです、ゲルロカかゲロニカか何かしらないですけれど。 気持ち悪いです」
この気持ち悪いの一言にTさんは少なからずショックを受けたようだったが、いやなものはいやだ。
「なぜ、まずTさんが自分で飲んでみないんですか?」 私はTさんにズバッと直球を投げ込んだ。
…いや、1カプセル分しかできなかったから… と先ほどの熱弁とはうってかわって、ごにょごにょと口ごもっている。<<こいつ、さては…>>と思った瞬間だった。
Tさんはかっと目を見開いていきなりそのカプセルを飲み込んだ。 そして横にあったペットボトルの水で一気に流し込んだのだ。
「ほんとうに大丈夫なんですか?」私はおそるおそるTさんに聞いた。
「大丈夫… 多分。 変化が現れるには1時間もあれば充分かなあ」と彼は若干緊張して答えた。
ということは1時間は待たねばならないのか。
私はやれやれと腰をあげ、特別にお客様用の紅茶をいれてさしあげた。
あのカプセルを飲んでからTさんは一気にトーンダウンして静かになってしまった。
しかたないので私は、最近読んだスズメになる呪文の話の本のことを教えてあげたり、昨日見た映画にでてきたおかしな振り付けの体操とやらを踊ってあげたりした。
そんなこんなで1時間が過ぎようとした。
「どうですか?」とTさんに問いかけた。
彼は「うーっ」とうなったかと思うと、いきなり「デビル・ウィ〜ング」と叫んで両手を振り下ろした。
あんぐりとする私にしばらく間をおいてから 「やっぱ、駄目みたい… 帰るわ」 とぽつりつぶやいて玄関へむかった。

Tさんの着ていたダウンウェアの両方の肩口のほつれから羽毛が飛び出している。
私はそれをそっとつまんで「ヒトに翼はいらないですよ」と、ちょっとだけ優しい気持ちでなぐさめの声をかけた。
しかし、「鳥の遺伝子では駄目なのか? じゃあ次は昆虫の遺伝子だな…」と言う彼のおぞましいつぶやきを私は聞き逃さなかった。
私は黙ってTさんを思いっきり蹴り出した。