旅する冬の図書館


桜の花びらが時折の風で猛烈に散っていくのが窓から見える。
「残念ながら今日でこの町を離れることとします」
一人しか居ない館長兼司書兼珈琲当番の小さな彼女はぺこりと頭を下げた。
「そうでしたね、ここは旅する図書館でしたね・・・」
わたしもつられてぺこりと頭を下げる。


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教会への坂の途中に立つ見慣れない真っ白でサイコロのような小さな建物。
それに気がついたのは去年の秋の終わりの頃だった。
“今までこんな建物あったかしら?” とほのかなオレンジ色の光に誘われて、わたしはその建物に近づいていった。
茶色くくすんだレンガの門柱。小さな採光窓からかすかな光がもれていた。
正面の大きな木製のドアにはなにやら文字が刻まれた赤茶けた銅版のプレート。
Una biblioteca dell'inverno per optare per un viaggio
“una? イタリア語?  biblioteca?  確か図書館の意味だったかしら?”
とうとうわたしは、好奇心をおさえきれずに扉をゆっくりと開ける。
からんころんと乾いた音と暖かい空気がわたしを迎えた。
外観の小ささとは裏腹に中は意外と広い。
どっしりと立派なマントルピース。
さらに、中央に大きな円形の木製のテーブルと周囲にやわらかくふくらんだソファー。
何より、ぐるりの壁一面が本で埋め尽くされている。
“ほーっ”とその景色に見とれていると、「ようこそ」の声。
振り返ると真っ赤なエプロンをしたちいさな彼女が立っていた。
「旅する冬の図書館へようこそ」


冬の間だけ開館するというこの図書館は、何の予定も計画もなく世界各地を回るという。
しかしその図書館の存在と姿は、本好きの人にしか見えないようだ。
この冬は、たまたま日本の何の変哲も無いこの町に来た。
そしてわたしが見つけたのだ。
いや、わたしがこの図書館に導かれたのかも。

本棚のどの本も今までに見たことも聞いたこともない本であったが、どうして!? というくらいにどれも抜群に面白かった。 
私は来る日も来る日も飽きることなく本を読みあさった。
そして、少し疲れると彼女が淹れてくれる珈琲を味わった。
驚くべきことにこの図書館ではどうやら時間の感覚がねじまがっているようで、夜通し何冊もの本を読みふけっていたはずなのに、一歩図書館を出るとせいぜい5分程度の時間しか過ぎていないのだった。


それでもそれでも、実世界の季節は着実に冬から春を迎えていたのだった。


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「もうわたしはあなたにもこの図書館にも会えないのかしら?」
彼女は少し困ったような顔をして、わたしの目を見て言った。
「たぶん、この町には来ることはもうないでしょう・・・」
しかし、彼女はもう一度大きく深呼吸をしてからわたしにこう言ったのだ。
「でも、もしあなたが望むならば、わたしといっしょに旅をしませんか?」
ほんのわずかの空白、そして、
「行くわ!」の一言。
結果的には、ほぼ即答だった。


「あなたの珈琲もおいしかったけれど、私の淹れる珈琲もなかなかのものなのよ」
彼女はにっこりと笑ってわたしに手を差し出した。
「次の冬まで実はいろいろと仕込みが大変なの、一人では」


桜の花吹雪がいっそう盛大に舞っている。
でも意外に次の冬は早いのかもしれない。
その冬が来たときに、わたしはどこで本に囲まれて珈琲を淹れているのだろう。